ISSN: 0037-3796
日本神経化学会 The Japanese Society for Neurochemistry
Bulletin of Japanese Society for Neurochemistry 60(1): 39-41 (2021)
doi:10.11481/topics147

私と神経化学私と神経化学

幸運な出会いの中で

1青山学院大学 元教授

2日本神経化学会 監事

発行日:2021年6月30日Published: June 30, 2021
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神経化学との出会い

私は神経化学会では少数派の理学系出身者です。“女子学生亡国論”が唱えられていた時代、定員20名の東京大学理学部生物化学科に女子学生が一挙に6名進学してきたというので、いよいよ波が押し寄せたかと先生方を慌てさせたのが私達の学年でした。

修士課程は「タンパク質化学」の研究室に進みましたが、少し周りが見えるようになると、免疫や神経など、面白そうな分野は医学系にあると分かってきました。当時は「兼担」という形で、修士課程を終えた理学系の学生を受け入れる医学系の研究室がいくつかあり、その一つが黒川正則先生の脳研究施設生化学部門でした。初めて脳研を訪ねた日、私は「ヒストン」や「クロマチン」のことを話し、ちょうどその頃、神経細胞の核とグリアの核を分取する方法を見出しておられた黒川先生と生意気にも話が合ってしまったのです。先生にとって初めての理学系学生だった阿部輝雄さんと私は、ウシ脳を使った解剖実習、伊藤正男先生の集中講義など、今思えば途方もなく贅沢な特訓を受けたのでした。

脳研の院生となった年、お茶の水の日仏会館で開かれた第14回大会(1971年)が私と神経化学会との出会いでした。当時の抄録は4ページもある「論文」で、査読もあり、「毎年、神経化学会で発表する」というのが目標となりました。そして二年後、東京の都市センターで開かれた第4回ISN国際神経化学会議(1973年)で発表したのが私の国際学会デビューとなりました。

院生の間に結婚し、二人の子供を持った私にがっかりしつつも、黒川先生が続けさせて下さったことがその後のすべての土台となりました。そして、ドイツでの約三年のポスドクの後、再び脳研に受け入れていただき、小宮義璋先生と出会ったことが研究を続ける上での最大の幸運だったと思います。

軸索内輸送と溶けないチューブリン

ドイツのマックス・プランク研究所では、「シナプトソーム」の発見者Dr. Victor P. Whittakerの研究室で、シビレエイ電気器官を材料に、コリン作動性のシナプス前終末やシナプス小胞のタンパク構成を調べていました。げっ歯類脳から調製するシナプトソームは、いろいろな伝達物質を含むシナプスの混合物で、しかもシナプス接合部を含みます。脳研に戻ってまず、純度の高いシナプス前終末を腸管神経叢から分離することを試みました。なかなか純度が上がらず難航しているところに助け舟を出して下さったのが当時、オーストラリアから帰国して坐骨神経を用いた「遅い軸索内輸送」の研究を立ち上げておられた小宮先生でした。

軸索内輸送を調べるには、細胞体がアクセス可能な場所に固まって存在し、そこから長い軸索が束になって伸びている系が必要です。細胞体付近に放射性アミノ酸を注入し、何ミリも何十ミリも離れた場所を通過する輸送中の放射性タンパク質を捉えるのです。小宮先生の指導で、延髄の迷走神経背側運動核に放射性アミノ酸を注入し、数時間後に迷走神経、さらに腸管神経叢へと辿りました。生まれて初めて生きた動物の脳を開けてガラス針を刺した時の震えは今でも覚えています。残念ながら、この方法で標識はできても、シナプトソームの精製は困難でした。ところが、試しに一週間おいて迷走神経を調べると、標識チューブリン・サブユニットが驚くほどきれいに見えてきました。それ以来、私は軸索内輸送、なかでも細胞骨格を運ぶ遅い輸送にはまってしまいました。ちょうどその頃、最初の軸索内輸送ワークショップ(Workshop on Axonal Transport)が南ドイツで開かれました(1981年)。森の中の城で100名あまりが3泊4日寝食を共にしたclosed meetingは、一気にこの分野の全貌を掴み、主だった研究者に自分のことを知ってもらう最高のチャンスとなりました。この会はISN大会と連動して1999年まで開かれましたが、細胞骨格を巡る研究の飛躍的な発展の中に自然と取り込まれていきました。

その後、坐骨神経で輸送されるチューブリンのほぼ半量が、低温やCa2+などの微小管脱重合条件でも溶けないことをみつけました。細胞生物系の会で報告すると、当然ながら、「抽出が不完全なだけ」、「失活したのではないか」と、たくさんの懐疑的な指摘をいただきました。特注のステンレス容器に神経断片を入れ、液体窒素で凍結して粉砕するという抽出法を考案し、いろいろな生理的条件下で調べた結果、「溶けないチューブリン」は加齢に伴って増加し、神経再生時は減少するなど、遅い輸送速度の変化と対応することが確認できました。でも「微小管の姿をしているのか?」という疑問は、小宮先生について群馬大学医学部に移った1989年でも残っていました。

充分成熟した培養後根神経節細胞の突起に「溶けない微小管」があることを直接確認できたのはさらに6年後でした。これにはビデオ増強微分干渉顕微鏡や光ピンセットなどの新しい手法が必要で、「レーザー物理学」からその「生物応用」に乗り出していた夫(田代英夫;理研)やそのチームに居た倉知正さん(現・群馬大学)との共同研究で可能となったのです。「溶けない微小管」は側面ではなく、主にその両端で保護されていました。そろそろ銀婚?という頃に、私達は初めて同じ論文に名を連ねることとなりました1, 2)

「溶けないチューブリン」はその後、培養神経細胞の「低温-Ca2+耐性微小管」として認知されるようになりましたが、その特殊な安定性が何によるのかはずっと謎でした。タウやMAP2のような側面結合タンパクは、絶えず重合–脱重合する動的な微小管を安定化しますが、脱重合しない微小管まではできません。2013年になって一つの答えがかつての軸索内輸送研究グループから出てきました。溶けないチューブリン自体がトランスグルタミナーゼによりポリアミン修飾されているというのです3)。同じ頃、マイナス端結合タンパクも見つかり始めました。軸索変性疾患や加齢変化にどう関わるのか、「溶けないチューブリン」はますます面白くなりそうです。

もう一度理学系から

いつか機会があれば神経化学の面白さを理学系の学生さん達に伝えたいと思っていましたが、縁あって2000年に青山学院大学理工学部に移り、それを叶えることができました。研究室の立ち上げ時、黒田洋一郎先生のCREST「内分泌かく乱化学物質の脳神経系機能発達への影響と毒性メカニズム」に加えていただいたことで新しい展開が可能となりました。毎年10名ほどの卒研生が入り、その6割が博士前期課程に進学するという状況では、今までのやり方は通用しません。CRESTで知り合った神経毒性学が専門の根岸隆之さん(現・名城大学)を助教に迎え、それぞれに小テーマを与えながら、合わせるとチームとしての結果になるという形を作っていきました。ほとんどが前期課程で就職していく中、チームリーダーとして後期課程まで頑張り、学界に残った数人が、どのように道を開いていくのか、期待しつつ見守りたいと思います。

理工学部の院生を連れて神経化学会に参加するようになった頃、定年退官後たった三年で小宮先生が急逝されました(2006年8月)。奥多摩の山中で、第二のライフワークというべきハムシ(葉を食べる小さな甲虫)を採集中のことでした。「研究室に一番長く居る人が一番仕事をしている」という雰囲気だった時代から、時にはリモートワークも認め、「結果」で評価して下さった先生とでなければ、私が仕事を続けるのは不可能でした。理事の定年制は、アイデアマンだった小宮先生が神経化学会に残されたものです。

この年9月の神経化学会大会で、思いがけず三年後の大会長というお話を遠山正彌理事長からいただきました。育ての親のような学会ですから、お役に立てるのは嬉しいのですが、何をすればよいのか、どうやって費用を集めるのか、見当もつきませんでした。思案するうち、柿本泰男先生が奥道後ホテルで開かれた第23回大会(1980年)を思い出しました。「全員同じ屋根の下で過ごした会は素晴らしかったです。」と柿本先生に言いますと、「あれは苦肉の策。ホテル丸ごと貸し切れば会場費は浮くからね。」と笑っておられました。これをヒントに、石崎泰樹先生、白尾智明先生はじめ群馬大の方々の力をお借りして、伊香保のホテル天坊で第52回大会(2009年)を開催することができました。若手育成セミナーを軌道に乗せるのにも「ホテルに缶詰め」の大会は少し貢献できたかなと思います。2007年~2011年にはISNの理事も経験させていただきました。

おわりに

一つ論文を仕上げる度に、「これが最後かもしれない」と思いながらも、なんとか続けてきました。一緒に仕事をして下さった方々はもちろん、神経化学会で出会った多くの先生方に力を貸していただいたこと、この場を借りてお礼申し上げます。また、日々の生活でも、義母を筆頭にいろいろな人に助けてもらいました。私が前橋、夫が仙台と大変だった7年間、義母は毎週我が家に3泊し、一切を仕切ってくれました。週に二日、終わりの時間を気にせずに実験できたのは本当に幸せでした。

かつてに比べると余裕のなくなっている今、困難に直面する若い方達に伝えたいことが一つあります。独りで悩んで諦める前に、周りを巻き込み、力を借りることをためらわないで下さい。その借りをいつか次の世代に返していくことで、学会という人のつながりも生き続けるのだと思います。

(2021年4月原稿受理)

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