ISSN: 0037-3796
日本神経化学会 The Japanese Society for Neurochemistry
Bulletin of Japanese Society for Neurochemistry 60(1): 42-44 (2021)
doi:10.11481/topics148

私と神経化学私と神経化学

ある患者との出会い

1国際医療福祉大学ゲノム医学研究所

2東京大学大学院医学系研究科分子神経学

3日本神経化学会名誉会員

発行日:2021年6月30日Published: June 30, 2021
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私は、1976年に東京大学医学部を卒業して、出身大学の医局に入ることなく、当時開学して間もない自治医科大学の内科レジデントプログラムに参加しました。当時、出身大学の医局に入らず、学外に出ることは、非常にめずらしい選択で、かなりの勇気を必要としました。その決断には、医学部学生時代に、早石修先生から受けた影響が大きかったと思います。私の医学部学生時代に、当時、京都大学医学部医化学の教授でいらっしゃった、早石修先生が、東京大学医学部の栄養学教室に兼任で勤務しておられました。

私が早石先生に初めて出会ったのは、医学部の生化学の講義でした。プリン代謝の講義でしたが、Lesch-Nyhan症候群を例に出して、医学生だったMichael Lesch君が、血尿を出している患者さんの膀胱の中を膀胱鏡で観察したときに、膀胱内壁に針状の結晶が刺さっていて、そこから出血していることを発見、この結晶が尿酸結晶であることが証明され、この疾患のプリン代謝異常の解明につながったことを話されました。このエピソードの紹介から出発して、プリン代謝全般の生化学を生き生きとした話しぶりで解説をしていただきました。それまで、医学部の基礎系の講義を聴いていても、病気のことまで視野に入れ、しかも、基礎医学の講義として内容の充実した話を聞いたのは、初めてのことで、そのような中で聴講した早石先生の講義は、私には、目から鱗という感じで、それまで持っていたモヤモヤした気持ちが吹き飛びました。講義の後、すぐに、早石先生の教室に伺い、実験などに参加したいとお願いしましたところ、快く、受け入れていただきました。

早石研では、当時、生化学の分野では、cyclic AMP(cAMP)を介するシグナルがホットな研究分野でしたが、Brevibacterium liquefaciensという細菌が培地中に大量のcAMPを出すことに注目して、cAMPの産生に関与するadenylate cyclaseという酵素がどのように誘導されるのか、という機構を研究していました。この酵素が、ピルビン酸を始めとするα-ケト酸によって誘導されることから、培地中のピルビン酸、乳酸を測定するお手伝いをさせていただきました。様々な条件下で培養し、酵素法を用いて、ピルビン酸、乳酸の測定ばかりでしたが、研究に参加させていただき、共著者の一人として、PNASの論文作成にも参加させていただきました。私自身、卒業後、神経化学の分野の研究に参加するようになった背景は、学生時代の早石研での経験が大きかったように思います。

早石研では、海外の研究者がよく訪問してきて、その度に、研究室でセミナーが開催され、早石先生が流ちょうな英語で、discussionをしている姿がまぶしいくらいに印象的でした。早石先生は、いつも、学問の世界は一つであり、自分の出身大学など狭い社会にとらわれず、広く世界を見なさいと、口を酸っぱく話をしておられました。

医学部を卒業する時に、早石先生から強く誘われたこともあって、基礎系に進むか臨床系に進むかを含めて進路の選択にとても迷い、決めかねておりました。たまたま、卒業前の秋でしたが、自治医大に見学で伺う機会がありました。当時の自治医大は、若手の教授が中心で、それぞれの教室がとても生き生きと活発に活動している姿が印象に残りました。特に、神経内科の教室は、神経生理学が専門の吉田充男教授、神経化学が専門の宮武正助教授、米国での診療経験が長く、米国のNeurologyのBoardを取って帰国したばかりの水野美邦先生など、そうそうたるメンバーでした。特に、水野先生が、米国スタイルのレジデントプログラムの実践を計画しており、とても魅力的であると思い、その日のうちに、自治医大のレジデントプログラムに参加しますと申し出て、東京に戻りました。卒業後、内科のジュニアレジデント(2年)、神経内科シニアレジデントのプログラム(3年)に参加し、充実した診療経験をさせていただき、自治医大には足掛け8年間勤務しました。

自治医大で内科の研修が始まったのは、1976年6月1日でしたが、内科のローテーションは神経内科から始まりました。勤務開始の初日に、adrenoleukodystrophy(ALD)のご兄弟が入院し、私が担当を命じられました。神経化学がご専門の宮武先生を頼って、この日に、都内の病院から転院してこられたわけです(どうも、宮武先生が、私達の勤務初日になる日に合わせて転院の日を決めたようです)。ALDの脂質異常については、五十嵐正紘先生(当時、自治医大小児科講師)が、Albert Einstein大学の鈴木邦彦先生の研究室で、大脳の脱髄病変部や副腎皮質で、極長鎖飽和脂肪酸を有するコレステロールエステルが蓄積していることをJ. Neurochem.(1976)に発表したばかりでした。臓器の脂質分析では、極長鎖飽和脂肪酸の異常が検出されるものの、臨床で用いることができるような検体(例えば、血液とか脳脊髄液)の分析では、そのような異常は検出できず、臨床検査として用いることができる検体を用いた生化学的分析で診断確定をすることはできませんでした。そのため、当時は、ALDの診断は、臨床診断の範囲に留まっていたわけです。

宮武先生からは、ALDの生化学的診断を、臨床検査としてできる方法を開発しなさいという指示を受けました。診療が終わった後、夜中に宮武先生の研究室に行って、血液や脳脊髄液、培養細胞、あるいは、剖検組織等を用いた脂質分析の研究に参加するようになりました。当時、宮武先生の研究室には、最先端のガスクロマトグラフィー-質量分析計(gas-liquid chromatography-mass spectrometer, GC-MS)が導入されており、有賀敏夫先生、鈴木實先生という脂質分析、質量分析の専門家がいらっしゃって、お二人の先生の下働きをしていました。私は、研究室で下働き的なお手伝いをしただけだったのですが、1976年の秋に新潟で開催された神経化学会に演題を出すようにということで、おだてられて、私が筆頭著者として抄録を提出しました。

当時の神経化学会は、抄録そのものも論文形式でしたが、それ以上に、口頭発表10分、質疑応答10分というもので、質疑応答の時間が異様に長い設定でした。化学イオン化法を用いたGC-MSの分析で、脂肪酸を定量的に測定することについては、分析化学の観点からは、いろいろ批判的な意見も多かったようです。質疑応答では、そのような点に集中して質問が次から次へと出されました。私自身は、質問の内容すら十分に理解できないところも少なくなく、質問が殺到してサンドバック状態になり、何一つ答えられず、壇上で立ち尽くしたまま、会場で有賀先生が答えてくれるという、無様な経験をしました。

壇上で10分間立ち尽くすのは、とてもショッキングなことでしたが、その時の経験から、自分が発表すると時には、何を聞かれても、パーフェクトに答えることができるレベル(予備実験なども含め、全ての実験を自分自身で行っていて、結果も得ているというレベル)になっていないと、絶対に自分では発表しないと言い聞かせるようになりました。神経化学会のあのような場で鍛えられて、研究者は育つものと、自分自身にいつも言い聞かせてきました。

当時の神経化学会は、抄録も論文形式で、確か、査読もあったと思います。皆さん、極めて真面目で熱心に討議している姿がとても印象に残っています。学会とは、あのように切磋琢磨する場だと思います。日本は、そのくらい厳しい鍛え方をする場がなくなってきているように思われ、これではいけないなぁといつも感じております。

ALDの脂質分析については、その後も苦行が続きました。宮武先生には、他の研究に手を出すことは絶対に許してもらえず、鳴かず飛ばずの状態で脂質分析を続けましたが、ある時、ふと、赤血球膜で生理的に極長鎖脂肪酸を含む脂質は、スフィンゴ脂質であることに気づき、赤血球膜のスフィンゴミエリンの脂肪酸分析をしたところ、C25:0, C26:0などの極長鎖飽和脂肪酸が増加していることを見出しました。有賀先生と二人で、plotterから出てくるガスクロのチャートを見て感激し、深夜遅くというか未明に近かったかもしれませんが、宮武先生のご自宅に、お電話をかけて報告をしたことも懐かしい思い出です。この仕事は、1981年のJ. Neurochem.に発表できましたが、私にとっては、初めての筆頭著者としての原著論文で、最初に宮武先生から命を受けてから5年を要しました。その間、鳴かず飛ばずの状態でも研究を続けたことが印象に残っており、そのように上手く行かない研究が、実は、研究の飛躍の原動力になるということを実感しました。

その後、私は、1984年–1987年の3年間、米国NIHでvisiting fellowとして働き、Gaucher病の分子遺伝学研究に携わりました、NIHの人達から強く誘われたこともあり、米国で研究を続けるか、帰国するか、かなり迷いましたが、当時、新潟大学脳研究所神経内科教授でいらっしゃった宮武先生にお声がけをいただき、新潟大学脳研究所で勤務する機会をいただきました。その後、新潟大学から東京大学に異動になる時期でしたが、御子柴克彦理事長から、2003年の第46回神経化学会を新潟でお世話する機会をいただきました。準備をするに当たり、1976年の時の神経化学会の様子を頭に入れながら、企画をさせていただきました。そのようなことから、できるだけ質疑応答の時間を長く取るように配慮をしました。新潟大会は、日本生物物理学会との共催という形で開催されましたので、まさに、学際性の高い学術大会になったと思います。

私自身の研究領域は、新潟大学脳研究所勤務の時代から、分子遺伝学の研究が中心になってきており、最近は、神経化学会からやや足が遠のいているところがありますが、神経化学は、物質に基づき、生命、疾患を理解する、という考え方が基本で、その重要性は、今後ますます大きくなると考えています。一方、生命科学研究は、幅広い分野を含めた学際的な研究へと発展してきていますので、日本神経化学会が、そのような時代の流れをリードする学会として、今後ますます発展することを期待しています。

(2021年4月原稿受理)

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