ISSN: 0037-3796
日本神経化学会 The Japanese Society for Neurochemistry
Bulletin of Japanese Society for Neurochemistry 63(1): 20-27 (2024)
doi:10.11481/topics214

海外留学先から海外留学先から

NIH留学記

浜松医科大学医学部脳神経外科

発行日:2024年6月30日Published: June 30, 2024
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はじめに

医師になって13年目の2019年4月からアメリカ東海岸のメリーランド州ベセスダにある米国国立衛生研究所(NIH)に研究留学してまいりました。途中コロナ禍に見舞われながら3年間の留学を終了し、2022年2月末に帰国しました。現在は浜松医科大学医学部脳神経外科学講座にて、NIHで行っていた脳腫瘍の代謝研究を引き続き行っています。今後米国留学を目指す先生方の参考になればと思い、寄稿させていただきます。

海外留学の経緯

日本の医師の米国研究留学はポスドク期間中が多いですが、多くの米国研究留学生が取得する非移民交流訪問ビザ(J1 VISA)の場合、滞在期間は原則5年間となります。更に延長して滞在を希望する研究者は特殊技能職者ビザ(H-1B VISA)を取得することが多く、最大6年ほど滞在が可能で、Green Cardに切り替えると米国に長期滞在が可能となります。また近年アメリカ留学に際しNIHの給与基準を満たす給与証明書を提出できなければポスドクフェローとして受け入れて貰えなくなり、留学先から給与が出ない場合日本から奨学金や給料を獲得する必要があります(いくつか抜け道はあります)。私はインターネットのサイトでポスドク募集の掲示を見つけて応募したところ、有給での採用に至りました。

採用までに留学先のボス(PI)とメールでのやり取りを何度か行ったのち、スカイプでinterviewを受けました。2018年11月のことでした。Interviewでは大学院で行っていた研究内容のプレゼンテーションを行い、志望動機、実験スキル、留学中の研究計画など質問に答えていきました。1時間ほどの面談の末に採用が決まり4月から働いて欲しいとofferをいただき、そこから4か月程で留学準備を行いました。

留学準備

・DS2019

米国留学準備はまずDS2019を留学先のNIHからから発行してもらうことから始まりますが、郵送されてきたのが2月初旬でした。年末のクリスマスを挟んでいたせいかスカイプでのinterviewからちょうど3か月ほどかかったことになります。ともあれ、ここから一気に留学の準備を始めました。

・米国ビザ申請

私はJ1 VISA、家族はJ2 VISAを申請しました。米国国務省のサイトに入りDS-160という結構時間のかかるオンライン申請書を家族全員分作成し、面接の予約をしました。面接地としては東京の赤坂にある米国大使館を選択しましたが、大阪の領事館でも面接を受けられます。VISA申請の際にVISA申請料金とJ VISAの場合はSEVIS費用というのが徴収されますが、NIHから発行されたDS2019にはGovernmentのGという頭文字が書かれており、政府指定のプログラム遂行者という扱いということで費用は免除されました。面接の予約は何とか2月末にとることができました。家族で米国大使館に行き、書類のチェックや簡単な質問を英語でされ、その1週間後にVISAが自宅に郵送されてきました。面接予約の混み具合にもよりますがVISAの申請からVISAが郵送されるまでに3~4週間ほど要したことになります。ちなみに面接では2~3個英語で質問があり5分ほどで終わりました。

・荷物の海外輸送

Washington D.C.に倉庫がある運送業者が何社かありますが、私はヤマト運輸を使用しました。大体費用は20万円程度だったと思います。段ボール20箱くらいに詰めるだけ詰めて船便で送り出しました。アメリカのアパートに荷物が到着するまでに3か月ほどかかりました。

他にも飛行機の予約や海外送金できるカードを作成したり、市役所関連では海外転出届の提出は必須で、これを忘れると年金の支払いが滞納扱いになったりします。また国際運転免許証を取りに警察署に行ったり、ちょうど確定申告の時期だったのでその年の確定申告をやったりとやるべきことがたくさんありました。

・海外に行く前にできる契約

日本にいる間に住むアパート、車、携帯電話の契約を済ませておくことができたので渡米後とてもスムーズに生活を立ちあげることができました。アパートは日本人が多く住んでいるメリーランド州RockvilleにあるWhite Flint駅という、NIHがあるBethesda駅から2個目の駅近くの物件を借りることとしました。1ベッドルームの部屋で駐車場代込み$1650と格安のアパートが見つかりました。この近辺の1ベッドルームの相場が駐車場代別で$1800–2000くらいだったのでとてもいい物件でした。車はJapan Auto Serviceという中古車販売店で購入しました。Web siteで車を選んでお金を振り込むだけだったので簡単に購入でき、また自動車保険にも日本にいながら加入できました。TOYOTAのRAV4を$15000ほどで購入し、現地スタッフが車を空港まで持ってきてくれたので、日本の運転免許と国際運転免許証があればすぐに乗ることができました。ただ左ハンドルで右側走行なので気を抜くと逆走しそうになります。

・渡米直前

2019年4月1日の航空チケットを購入し、引越の準備を進めました。幸いなことにバージニア州にあるダレス国際空港に成田空港から直行便が通っておりました。外来業務が3月29日まであったため、外来終了後急いで大学の荷物を整理し帰宅しました。荷物をキャリーバックに詰めていきましたが最終的に10個になり、大半を空港の荷物預り所に事前に搬送してもらい何とか車に乗るだけの荷物の量としました。3月31日までに大量の家具や生活用品をネットで見つけた業者に有料で持っていってもらい、さらに電気、ガス、水道の解約、家の明け渡しをして、何とか空港近くのホテルに出発前日に移動しました。日本で使用していた車は車買い取り業者数社に査定してもらい、その中で一番高く買い取ってくれたところを選びましたが、出発日に空港に乗り捨てでいい契約にしてくれたおかげでぎりぎりまで車を使用できました。

・出発日

ホテルを出て自家用車で空港へ移動。空港の駐車場で愛車とお別れをし、いざターミナルへ。10個のキャリーバックを空港の所定の場所で受け取り、搭乗手続きを行い、荷物を預けて身軽になり携帯ショップへ。携帯電話の電話番号保管などの手続きを済ませ、保安検査、出国審査を終えると気分は完全にアメリカ生活が始まる期待感で満たされていました。無事に飛行機に乗り込み出発。12時間半のフライトでダレス国際空港に到着しました。

アメリカ生活開始

いろいろ手探りで進めた留学準備、手続きを経てついにアメリカ生活が始まりました。空港を出たその日は空港近くのホテルに宿泊しのんびりと過ごしました。翌朝Japan Auto Serviceのスタッフが車を持ってきてくれました。荷物が大量であったため、もう一台Uberを要請し2台で自宅アパートまで行きました。アパートに着くとオーナーさんが待っていてくれアパート内を案内してくれました。ロビーは広く、筋トレルームやビジネスセンター、コンビニみたいなショップがあり、またコンシュルジュが24時間常駐しているためとても便利なアパートでした。さらに敷地内に公園やプールがあったため子供も楽しめる環境が整っていました。電気、ガス、水道はすでに使えるようにしてくれていました。また電子レンジ、オーブン、食洗器、洗濯機、テレビ、ソファー、ダイニングテーブルが備え付けられていたのでほとんど消耗品以外は購入する必要がなく、生活の立ち上げはすでにほぼ完了している状態でした。

渡米後の手続き

一番初めにしたことが銀行カードをつくることでした。私はBank of Americaが家のすぐそばにあったので歩いてカードを作りに行きました。また日本でいうマイナンバーに相当するSocial Security Number(SSN)が運転免許の取得に必要であり、早めに取得しに行きました。Social Security Officeで手続きし1週間ほどで自宅にSocial security cardが郵送されてきました。次いで運転免許の取得の手続きを進めました。米国においては自動車運転免許の取得に関するルールは州ごとに異なります。幸いなことに2016年から日本政府とメリーランド州間の取り決めで、日本の自動車運転免許を持っていれば筆記試験と実技試験が免除されることになったため、苦労することなく運転免許を取得できました。オンラインでアルコール・ドラッグ講習を受け、そのあと自動車教習所で講習内容に関する試験を受け修了証を発行してもらいました。アルコール・ドラッグの試験は過去問がネットでアップされているのでこれを覚えていけば問題なく合格点がとれます。この修了書、パスポート、自分の住所を証明できるもの2点(住居の契約書とか公共サービスからの郵便とか)、Social Security Card、I-94(Webで印刷)、日本の運転免許、運転免許証抜粋証明(事前に日本大使館に行って発行してもらう必要あり)などを持ってMotor Vehicle Administration(MVA)という日本の免許センターに相当する施設に行きました。係の誘導に従ってスムーズに手続きが進み、視力検査や写真撮影を受け最後に代金を支払って終了。1週間ほどで3年間有効のMaryland州のDriver’s Licenseが郵送されてきました。アメリカ生活ではあらゆる場面でPhoto IDが求められます。例えばレストランでお酒を頼むときやホテルに宿泊するとき、病院にかかるときなどDriver’s Licenseがないとパスポートを提示することとなりますが、紛失のリスクを考えるとパスポートを常時持ち歩くのは避けたかったので、Driver’s License取得後は生活がスムーズになりました。

私が暮らしていたワシントンD.C.近郊は気候がほぼ日本と一緒で春には桜が満開に咲きます。日本人にはとても過ごしやすく、日本食のレストランや雑貨店も多くあるため日本食が恋しくなることはありませんでした。観光地としても充実しており、ホワイトハウス、国会議事堂、リンカーンの像があるNational Mallや無料で入れる博物館がたくさんあり、大人も子供も楽しめます。自然が多く、公園もたくさんあり子供と過ごすにはとてもいい環境でした。ワシントンD.C.を本拠地とするスポーツチームが揃っており、野球、バスケ、アメフト、アイスホッケーなど娯楽もたくさんありました。渡米した年にD.C.を本拠地とするナショナルズがワールドシリーズで優勝し国会議事堂に向けてパレードが行われ大変な賑わいでした。メリーランド州には車で45分ほど離れたところにベーブ・ルースの生誕の地であるボルチモアがあり、そこはアメリカンリーグのオリオールズの本拠地であり、同じリーグに所属するエンゼルスの大谷選手の試合を見ることができました。またバスケットボールチームとしてD.Cにはウィザーズがあり、八村塁選手が所属しておりましたが帰国までに観戦することはできませんでした。

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左上:ホワイトハウス、左下:国会議事堂、真中:リンカーン像、右:ワシントン記念塔

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左:国立航空宇宙博物館、右:国立自然史博物館

National Institutes of Health(NIH)

私が留学したNIHは1887年に設立された全米で最も古い医学研究所で、本部はBethesdaにあります。NIHは生命医学研究を行うことと、NIH以外の大学や研究所に生命医学に関わる研究費を配分するという2つの大きな役割があります。The U.S. Department of Health and Human Services、日本語でアメリカ合衆国保健福祉省の11部局の一つで、11部局の中には他にアメリカ食品医薬品局(Food and Drug Administration: FDA)とかコロナで取り上げられることが多くなったアメリカ疾病予防管理センター(Centers for Disease Control and Prevention: CDC)とかがあります。本部Bethesdaは東京ドーム25個分の広い敷地に75以上の建物が立っています。18000人以上のスタッフが働いており、その1/3がMD、PhDというかなり規格外の施設です。傘下に27の機関がありその総称であり、Institutesと複数形なのはこのためです。その中にPubMedの本拠地であるNational Medical Library(国立医学図書館)があり、掲載されている論文はすべて無料で手に入ります。NIHには世界中の有名な研究者が多数在籍し、多くのノーベル賞受賞者を輩出し、またNIHから分配された研究費で受賞したりしています。NIHの中で最大の研究機関が私の所属していたNational Cancer Institute(NCI)です。NCIは1937年のRoosevelt大統領によって現在のBethesdaに創設された歴史のある機関で、NIHが現在の病気割りの組織になる前から存在した唯一の機関です。もともとNCIはNIHに属する1つのInstituteではなかったことから、その名残として現在でもNIHとNCIのそれぞれの長官は大統領人事として任命されます。このためか今日は大統領が視察に来るといって敷地の道路が封鎖され、そこを黒塗りのシボレーが何十台も列をなして通過するなんてことがしばしばありました。NCIは16の組織に分けられ、その中のCenter for Cancer Research(CCR)というNCIの中で最大の組織に所属していました。CCRは230を超える基礎や臨床研究グループを含んでおり、あらゆるがん研究に関係する研究が行われています。私が所属していたNeuro-Oncology Branch(NOB)はCCRの一つのグループとなります。NOBにはPrincipal Investigator(PI)という主任研究者が6人いてその下に合計で60から70人のPhDやMDを持った研究者やその他メディカルスクール進学希望の大学生(pre-med: かなり優秀な大学生です)がそれぞれのPIの下で競い合いながら研究に明け暮れていました。NIHは多様性(diversity)をかなり重要視しているようで様々な人種が働いています。NIHで働くアジア人の割合は20%とアメリカ全体の5%と比べるとかなり高い割合となっており、実際私の所属していたNOBでも25%程がアジア人でした。アジア人を含め多くの研究者が朝から晩まで、土日祝日、Thanksgiving、クリスマスもなく、まさに24/7(24 hours a day, 7 days a week: 年中無休)で働いていました。もともとアメリカは休日が日本と比べてはるかに少なく、私は長期休みを取らなかったので3年間みっちり研究できましたが、働き方改革を進めている日本とは逆行した働き方であったと思います。

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National Medical Library:PubMedの本拠地です。

NIH研究生活

私はNOBのCancer Metabolomics teamにvisiting fellowの身分で働いていました。NOBを率いるMark R. Gilbert先生は初発膠芽腫に対する標準治療とベバシズマブの併用による有効性及び安全性を検証したAVAglio試験と同時期の2014年にベバシズマブの臨床試験結果をNew England Journal of Medicineに発表した先生で、MD Anderson Cancer Centerに勤務していたときに論文を作成し、その後にNIHに赴任されました。NIHに来てからも多くのclinical trialを手掛け、また基礎研究から端を発した多くのhypothesis-driven clinical trialを実施しており、私も新たな治療法を開発するモチベーションを高く持ち続けることができました。NOBにはCancer Metabolism team、Molecular and Cancer Cell Biology team、Cancer Stem cell Biology team、Immunology team、Translational Research team、Patient Outcomes teamが同じfloorの隣りあった研究室に配置されており、他のteamと消耗品や備品を共同で管理しているため、遺伝子導入細胞を作ってもらったり、腫瘍の初期培養細胞を分けてもらったり、実験器具の貸し借りや、顕微鏡など設備を貸してもらったり、うまくいかない実験についてのアドバイスをもらったり、研究室の中で自由に交流できる環境はとても恵まれていると感じました。さらに私が働いていたBuilding 37にはNCIの他の部署が多数入っており、脳腫瘍以外のがん研究の専門の研究室や遺伝子、免疫、その他いろんな専門分野の研究室で構成されており、このため他分野の研究室とコラボレーションしやすく、これがNIHの特徴の一つとなっています。

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左:Building 10(NIHで一番大きな建物)、右:Building 37(職場)

私の所属していたCancer Metabolism teamはMioara Larion先生がPIとして率いるteamでgliomaの代謝メカニズムの解明と新規治療法の開発を目指しています。Larion先生はもともと化学の分野でPhDを取得され、その後オハイオ州立大学で核磁気共鳴分析(Nuclear Magnetic Resonance: NMR)の研究を行い30代の若さで今のポジションを勝ち取った先生です。ラボには私を含めて3人のフェローと企業から派遣されたScientist、テクニシャンの計5人が所属しており、アメリカ人のテクニシャン以外はネイティブではなかったのでみんなが集まるといろんな国の訛りが飛び交っていました。私に与えられた最初の仕事が海外特別研究員のNIH枠に申請して日本からのフェローシップを取ることでした。4月に渡米して申請期限が5月末ということで渡米直後から申請書の作成にかなりのエネルギーを注ぐこととなりましたが、幸いにもacceptしていただくことができました。その後は申請書に記載した研究計画書に沿って研究を進めていきました。私のテーマはグリオーマの脂質代謝メカニズムの解明、特にイソクエン酸脱水素酵素(Isocitrate Dehydrogenase: IDH)変異グリオーマに着目した研究を行って欲しいということでしたので、IDH野生型、変異型遺伝子を導入したグリオーマ細胞株や様々な組織型の患者由来グリオーマ細胞を用いて脂質解析を行っていきました。質量分析、Raman顕微鏡を核としてteamメンバーと共に実験を進め、またMetabolomics teamの動物実験をすべて任していただくこととなり、1年目の年末~年明けには自分の実験データとともに共同研究者としての動物実験が順調に進み充実した研究生活でした。

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Cancer Metabolism team

COVID-19の影響

2019年12月末頃、中国で原因不明の肺炎が発生し、患者が急速に増え続けているというニュースが報道され、話題になり始めました。当初、アジアの地域と比べるとアメリカには感染者がほとんどいなかったためマスクをしているアジア人に対するヘイトクライムが問題になるなど、感染の広がりを抑制する意識は全くない雰囲気でした。特に欧米人は口元で表情や感情をとらえているらしく、サングラスはOKですがマスク着用には強い抵抗を感じるようです。

2020年1月下旬、アメリカのワシントン州で最初の新型コロナウイルス感染者が出てからしばらくは患者数の増加が緩徐であり、トランプ大統領も楽観的な姿勢をとっていましたが、3月初旬になると状況は急激に悪化し始め、1か月もしない間に感染者数は中国を抜いて世界一となりました。同じ頃猛威を振るっていたのがインフルエンザで、すでに1万人以上の方が亡くなっていたため、コロナウイルスはインフルエンザウイルスなのではないかという説が出ていたほど混沌としていました。2020年3月11日にWHOがパンデミック宣言をする直前にボスからNIHの敷地内に入れなくなるためすべての実験を中止するよう通達がありました。選択の余地なくインキュベーター内の細胞を破棄し、また治療実験中のマウスもすべてsacrificeしなければなりませんでした。ボスからの通達の翌日にはNIH全体が立ち入り禁止となりました。

リモートワーク

パンデミック宣言、その後ロックダウンが開始され、人生初のリモートワークを経験することとなりました。NIHのシステムも急速にリモートワークに対応していきました。在宅でのリモートワークになってからも、週1回ボスとのone on oneでのprogress reportsがあり、毎週成果を求められました。NIHで行っていたのはウェットラボでの実験が主体でしたので、在宅ワークをせざるを得ない状況を受けリモートでもできるプロジェクトはないか考えました。まずはロックダウン前に行っていたオリジナルの研究のデータをまとめるとともにロックダウン終了後にすぐに実験を開始できるように研究計画のブラッシュアップを行っていきました。また研究している分野のreviewに取り組み、NIH主催のオンラインウェブセミナーをたくさん受講できたので時間を見つけては新たなスキルを身に着けることに邁進しました。加えて、パンデミック前に行っていた実験の担当部分のmaterials & methodsの記載や他のパートを含んだ論文の作成をteamで行いました。2021年の年末にNature Communicationsのacceptが決まった時はみんなで盛り上がりました。

再開

かなりシビアな人数制限がありましたが2020年10月末からシフト制でラボに入ることができるようになりました。真夜中から早朝の枠は空いていることが多かったので、そこを狙ってラボで実験できる時間を確保するようにしました。12月末にワクチン接種が始まり、NIHスタッフの2回のワクチン接種が概ね終了した2021年3月頃から段階的に人数制限の解除が始まり、相変わらずのシフト制ではありましたが毎日ラボに入ることができるようになりました。

同じ頃、日常生活も通常に戻りはじめ、2021年7月4日にバイデン大統領がCOVID-19の終息宣言を行って以降多くの制限が解除され、州を跨いだ旅行にも行けるようになりました。またNIHの仲間とも交流を再開でき、仕事もprivateも充実した日々となっていきました。土日を利用していろんなところに旅行にも行けました。中でもイエローストーンは印象的でした。ニューヨークは車で4時間ほどのところにあったので何度も訪れました。また1200 km離れたオーランドにも車で行ってみました。片道14時間ほどかかり途中心が折れそうになりましたが何とか到達できました。

友人にも恵まれ、家族ぐるみのイベントがたくさんありました。ワシントンD.C.には官僚などの政府関係者、大使館職員、世界銀行など国際機関職員、いろんな会社の海外駐在員、FDAやCDCなど米国の政府機関の職員などNIH以外にもいろんな日本人が働いており、その中にはアメリカ永住を目指している方もおり、病院勤務では会う機会がないような方々と付き合うことができたのは留学の醍醐味だなと思います。子供を通じて知り合いが増えることも多かったです。

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左:ナイアガラの滝、真中:イエローストーン国立公園、右:2022年の年越しニューヨーク

英会話に関しては想像していたほど伸びませんでした。ただ毎週研究の進捗についてプレゼンしていたので自分の研究内容に関しては多少なりとも話せるようになりました。また日常会話も買い物や外食、ホテルなど何度も同じシチュエーションに遭遇すると、だんだん慣れてきて聞くのも話すのもあまり苦ではなくなっていきました。何年いたら流暢に話せるようになるのかわかりませんが、英語しか通じない環境に身を置くことで少し英会話のスキルが向上したのは確かです。周りを見ていると、物怖じしないでどんどん話しかけられるタイプの方の英語力は右肩上がりに伸びていたので、同じ期間でも期待する英語力を身に着けられるのかも知れません。

終わりに

渡米後1年ほどでコロナ禍に見舞われ、ロックダウン、その後社会活動が回復していく過程を米国で過ごしましたが、日本のことを外から見ることができたことで、日本のすばらしさをとても実感しました。アメリカの研究は特に特別なこと、特殊なことをたくさんやっているわけではないことを知れ、また世界の研究の現在地を間近で見られたことは貴重な経験となりました。留学に送り出していただいた多くの先生方にこの場を借りまして感謝させていただきたいと思います。

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NOBメンバー集合写真

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