ISSN: 0037-3796
日本神経化学会 The Japanese Society for Neurochemistry
Bulletin of Japanese Society for Neurochemistry 64(1): 36-49 (2025)
doi:10.11481/topics236

海外留学先から海外留学先から

ミネソタ・テキサス留学記

テキサス大学 ヒューストン健康科学センター

発行日:2025年6月30日Published: June 30, 2025
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はじめに

2020年3月、私は未曾有のパンデミックの拡大と同時期に渡米し新たな研究生活をスタートさせました。その後、ラボの移転に伴い極寒のミネソタ州から酷暑のテキサス州へと拠点を移し、ビザの更新や切り替え、ラボの引越しにも挑みました。本稿では、渡米6年目となった現在に至るまでの「n=1」の留学体験をお届けします。そして後半には、第2次トランプ政権下で揺れるアメリカの研究環境を俯瞰してお伝えできればと思います。決して私の経験は多くの人に当てはまるものではないかもしれませんが、こちらに来てから留学経験とは“一人一人に特別な物語”だと感じています。千差万別な経験談の中の一つとして、皆さまの留学準備や展望のヒントになれば幸いです。

ミネソタ編

アメリカ留学の経緯

総合研究大学院大学の大学院生だった2019年の秋、初めての筆頭著者論文がようやくアクセプトされ、博士課程の修了が現実味を帯びてきました。進路を本格的に考えなければならない時期でした。ポスドクとして受け入れてもらえる研究室を探そうと、いくつかの海外PIにメールを送りましたが、なかなかうまく進展しません。当時の私は、ひと段落ついた研究にやや燃え尽き気味で、準備にも今ひとつ気持ちが入っていなかったことが原因に思います。そんな中、指導教官の鍋倉淳一先生と和氣弘明先生のお力添えで、アメリカ合衆国ミネソタ州ロチェスターにあるメイヨークリニックのLong-Jun Wu先生をご紹介いただき、連絡を取ることができました。私は大学院生時代、二光子顕微鏡を用いてミクログリアのin vivoイメージングを中心に研究をしており、博士課程修了後もその“細胞の動き”の不思議さに迫る研究を続けたいと考えていました。Wuラボもまさにミクログリアのin vivoイメージングを主軸に据えた研究室であり、当時の私から見れば、いわば“遠くて近い”存在のラボでした。同年11月、北米神経科学学会(SfN)での発表をきっかけにWu先生と直接お会いし、興味のある研究内容や今後の展望について議論する機会をいただきました。実はその時点では、私は海外学振にも他のフェローシップにも応募できておらず、研究費の目処はまったく立っていませんでした。それにもかかわらず、イメージング部隊の即戦力としてWu先生は私を快く受け入れてくださり、新たな挑戦の扉が開かれることとなりました。このような素晴らしいご縁をいただけたのは、鍋倉先生と和氣先生のご支援あってのことと、心より感謝しております。

博士課程の修了が翌年3月に迫っていたため、留学までの準備期間はわずか4ヵ月ほどしかありませんでした。ポスドクとしてアメリカに渡る多くの研究者と同様、私も非移民交流訪問者ビザ(J1ビザ)を取得する必要がありました。ビザ取得のためには、まず受け入れ先の機関に「DS-2019」という書類を発行してもらい、それを持って日本のアメリカ領事館で面接を受け、パスポートにビザを貼付してもらうという手続きが必要です。ところが、DS-2019の申請から日本への郵送までにおよそ3ヵ月、さらに領事館での面接とビザの発行に2~3週間を要したため、実際にビザが手元に届いたのは出発直前でした。それまでの間に、日本からでも申請可能なアメリカの銀行口座やドル建てクレジットカードの手配、海外赴任者向けの保険加入など、出国準備を急ピッチで進める日々が続きました。ちなみに、このときの私は知らなかったのですが、DS-2019は見た目こそペラペラの紙一枚ながら、実は“パスポートに次ぐ重要書類”と言っても過言ではありません。ビザ申請時だけでなく、アメリカ入国時や一時帰国後の再入国時にも必ず提示を求められる、大変重要な書類なのです。

不安の中で出国

2020年3月11日にWHOがパンデミックを宣言し、直後の13日にはアメリカでも国家非常事態が発表されました。本来は3月末に渡米予定でしたが、急遽フライトを早め、慌ただしく渡米を決めることになりました。直前の準備に時間はかけられず、下宿のアパートを急いで引き払い、旅行カバンに服を詰め込んで出国。今にして思えば、時間さえあれば、手元に置いておきたい教科書などを船便で送っておけばよかったと思います(船便は3ヵ月ほどかかるので気長に待つことになりますが)。

羽田空港の保安検査場では、テレビ局の記者に「こんな時期に、なぜアメリカへ?」と取材されながら、ほぼ貸切り状態の国際線に搭乗しました。向かったのは、ミネソタ州ミネアポリス・セントポール国際空港(この路線は後にコロナ禍で一度廃止され、のちに復活しました)。このときの私は、不安が8割、疲労による「もう何も考えたくない」が2割、といった心境だったように思います。そして3月16日、なんとか無事にアメリカへ入国しました。数日後にはロックダウンと空港封鎖が始まったので、まさに滑り込みの渡航でした。

空港到着後はすぐに、メイヨークリニックのあるミネソタ州ロチェスターへと移動し、2週間のホテル隔離から私のアメリカ生活がスタートしました。到着初日の深夜、時差ボケのままこっそり近所のカフェへ飲み物を買いに行った帰り道、突然、野球バットをぐるぐる振り回しながら進路を塞ぐ人物に遭遇し、追いかけられるという洗礼を受けました。幸い走れる靴を履いていたため無事に逃げ切りましたが、その際に差別的な言葉を浴びせられたのを覚えています。当時はまだマスクが一般的でなかったため、私の姿が目立ってしまったのかもしれません(現在ではそのような偏見はなくなりましたが、マスク姿で出歩くと少し目を引きます)。「とんでもない国に来てしまったのでは…」と本気で思った瞬間でしたが、結論から言えば、これまで5年間の滞在中にこのような危険な経験をしたのはこの1回きりです。

ホテル隔離中には、現地での生活の基盤を整える必要がありました。ビデオ通話を使って職場近くのアパートを探し、直接の内見はできなかったものの、無事に契約にこぎつけました。ただし、アパート契約には銀行口座が必要で、銀行口座の開設にはソーシャルセキュリティーナンバー(SSN)が必要です。ところがそのSSNを取得するには、まずアパートの住所が必要……と、外国人の新生活には見事な“鶏と卵”構造が待ち受けていました。やはり日本にいながら事前に開設可能なアメリカの銀行口座や、ドル建てのクレジットカードを準備しておくことは、アメリカ生活の立ち上げにおいて非常に重要です。

ちなみに、パンデミックの影響で関連オフィスが閉鎖されていたため、私のSSN取得は最終的に1年近く遅れることになりました。それでも、例外措置を柔軟に適用してもらい、時間をかけて生活基盤を整えることができました。コロナ以降はオンラインでの手続きが充実したこともあり、最近では渡米前に日本からアパートを契約し、到着後すぐに入居するケースも一般的になっています。合理的であればルールは柔軟に対応する——このアメリカの気質には助けられる一方、対応する人によってルールが変わることもあるので、その“あやふやさ”には注意が必要です。

メイヨークリニックでの日々

4月だというのに、最低気温はマイナス10°C。アメリカ中西部の最北に位置するミネソタ州は、“アメリカの冷蔵庫”と呼ばれるほど寒冷な地域です(ちなみに“冷凍庫”の座はアラスカです)。夏には30°Cを超える日もありますが、冬は半年以上続き、マイナス30°Cを下回る日も珍しくありません。ここまで冷えると、瞬きをするたびに涙が凍り、まぶたが引っ付くような感覚になるのです。

ホテルでの隔離を終えると、いよいよ出勤初日。積もる雪の中を通って研究施設へ向かい、オンラインでのオリエンテーションやIDバッジ用の写真撮影を経て、ついにボスであるWu先生と直接お会いすることができました。パンデミック真っただ中ということもあり、ラボでは最初の数ヵ月間、1日を3つのシフトに分けて順番に実験室を使うなど、厳格な感染対策のもとでの運営が行われていました。ミーティングはすべてオンラインです。この厳しい例外措置はあまり長くは続かず、2021年のワクチンの浸透とともに警戒は弱まっていきました。

Wuラボでは週1回、進捗報告ミーティングと論文抄読会を隔週で交互に開催しています。抄読会では、自分のプロジェクトに関係する論文を紹介すると同時に、これまで数ヵ月分の研究成果をまとめて発表する形式で、担当の日は一人で3時間ほど話し続けることになります。準備は大変ですが、自分の研究を俯瞰的に整理し、他のメンバーの視点からも学ぶことのできる、非常に良い訓練の場です。ラボによっては少人数のミーティングのみだったり、そもそも定期ミーティングがなかったりとさまざまですが、この点においては“ラボによる”ところが大きいので日本とアメリカで大きな違いは感じません。最近ではラボの規模も拡大し、ボスの参加しない小規模なグループミーティングも新たに設けられ、行き詰まりの共有や関連文献の議論など、気軽な情報交換の場として機能しています。

メイヨー“クリニック”という名称ですが全米屈指の巨大な総合病院で、この名前はもともと150年前に竜巻被害がきっかけで設置された小さな診療所から始まったことに由来します。本部のあるロチェスターは病院関連施設が街の中心を占めており、治安も良く、落ち着いて過ごせる街です。日本から研究留学に来る医師も多く、現地には「メイヨー日本人会」というコミュニティがあり、家具や車の引き継ぎ、BBQなどの交流も盛んです。私も渡米当初から情報を教えていただくなど、大変お世話になりました。異国の地で“自分が外国人になる”という経験をする中で、同郷のコミュニティはとても大切な繋がりに感じます。

研究環境も非常に恵まれており、私が所属していた建物は華やかな見た目の病院とは別でしたが、必要な機能が一ヵ所にまとまっていて、実験の導線が良く、共同利用施設も充実していました。たとえば、三次元電子顕微鏡や超解像顕微鏡を備えた部門、タンパク質解析をサポートしてくれるプロテオミクス部門などがあり、技術スタッフの支援を得ながら、in vivoイメージングと電子顕微鏡観察を組み合わせた試みにも挑戦しました。ラボ間の垣根も低く、ちょっと違う階のラボに顔を出してコラボレーションが始まる、ということが自然に始まる体制です。それぞれが専門性を活かして補完し合うこの自由な雰囲気は、とても刺激的で、研究を大きく前に進める原動力になります。また、メイヨーはメディア戦略やブランディングにも非常に力を入れており、組織としての“良いイメージ”を高める努力が随所に見られました。世界的に有名な機関に所属しているというアイデンティティが従業員のモチベーションになる面は大いにあると思います。メイヨーはアメリカの病院ランキングで1位2位の常連であり、医療・研究・運営の各分野でその名声を落とさないように一人一人が努めている、そんな雰囲気がありました。

私の研究は、当初いくつかの疾患モデルマウスを用いた解析から始まりました。そのうち、ある同僚の実験を手伝っていたところ、その同僚が母国に帰国することになり、そのテーマを引き継ぐ形で、麻酔薬の作用に関する研究が私の主プロジェクトの一つとなりました。麻酔科出身のその同僚は、マウスが麻酔から覚醒する途中で暴れることを気にしていました。私自身も以前からその現象に疑問を持っており、実際に神経活動を観察すると、麻酔からの覚醒時に一過性の神経過活動が起きていることがわかりました。その頃、ミクログリアが神経細胞の活動抑制に関わるという報告がNatureやScienceで相次いでいました。それに着想を得て、「もしミクログリアが恒常性に関わるのであれば、逆に、麻酔で神経活動が抑えられたときにはその活動を促進しようとするのではないか?」という仮説が立ちました。毎日、暗い二光子顕微鏡の部屋にこもってタイムラプスの実験をしていましたが、高緯度であるミネソタの昼はかなり長いので、明るい時間に帰ることができます(夏の日没は9時過ぎ)。

継続的に観察する中で、麻酔条件下でミクログリアが突起を伸ばし、神経細胞に直接接触する様子を捉えることができました。そのマウスを急いで灌流固定し、技術者と連携してその接触部位を電子顕微鏡下で探し出し、3次元観察を行ったところ、ミクログリアの突起が神経細胞の細胞体にある抑制性シナプスを覆い隠すように差し込まれている構造が確認されました。これは、抑制入力を一時的に遮断する、いわゆる「脱抑制(disinhibition)」を引き起こし、神経活動の一過的な亢進を生じさせているのではないか——そう考え、仮説を立てて検証を重ねました。このミクログリアのふるまいは非常に興味深く、渡米から4年目にようやく論文として報告することができましたが、同時に新たな謎も数多く生まれてしまいました。私は現在も、この現象のしくみを明らかにするべく、in vivoイメージングを続けています。

私が非常に幸運だと感じているのは、研究室内外で良い研究仲間にたくさん出会えていることです。日々の議論や実験手技の共有に始まり、様々な実験を同僚と協力して進めることができました。ラボの雰囲気にも助けられました。毎朝ラボに向かうのがとても楽しみでした。

ミネソタでの生活

メイヨーのあるロチェスターからミネソタ州の中心都市ミネアポリスまでは、車でおよそ1時間。私は気分転換に、よくドライブに出かけていました。その道中は、延々と田舎の風景が続きます。地平線の彼方まで広がるトウモロコシ畑を見ると大陸の広さを感じます。街を離れれば光害のない満天の星空を楽しむことができます。運が良ければ、緯度の高さゆえにオーロラが見えることもあります。ロチェスター近郊には古生代の地層が露出する丘陵があり、散歩をすると貝の化石などがごろごろと落ちています。これといったランドマークに乏しいので「何もない」と言われることもありますが、私にとっては、日本では出会えないタイプの自然を味わえる、とても魅力的な土地でした。一方、ミネアポリスには全米最大のショッピングモール「モール・オブ・アメリカ」があり、賑やかさも楽しめる都市です。

ミネソタの冬は10月下旬から翌年4月末頃まで続きます。ようやく緑が芽吹く5月以降、晴れた日には皆こぞって芝生の上でランチを楽しみ、短い夏を満喫します。実のところ、私は日本にいた頃は寒さが苦手で、どちらかというと夏が好きでした。しかし意外にも、ミネソタの冬は私に合っていたようです。よく「ミネソタ育ちの人が日本に行くと、冬の寒さに驚く」という話があります。というのも、アメリカの建物はセントラルヒーティング方式が一般的で、ドアを開けて中に入れば常に暖かく保たれているのです。ラボの中も家の中ももちろん快適で、「冬の朝、布団から出られない」といったこととは無縁の生活になりました。大きな建物同士は、サブウェイと呼ばれている地下歩道やスカイウォークと呼ばれる渡り廊下で繋がれているため、屋外に出ずに移動できる構造になっています。身体が冷えにくく、風邪も引きにくくなったのは意外な発見でした。

乾燥していることも利点の一つでした。冷凍庫に霜が付きにくく、シンクにカビも生えず、顕微鏡室の除湿機も不要でした。気づけば、部屋を暖かく、乾燥した環境に保つことが、自分にとって思いのほか重要だったのだと実感するようになっていました。

また、ミネソタ州のナンバープレートには「10,000 Lakes」と書かれている通り、全米で最も湖が多い州とも言われています。東側は世界最大の淡水湖・スペリオル湖に面しており、付近には36億年前の地層——地球最古級の岩盤も存在します。かつては鉄鉱業が盛んで、五大湖を通じて鉄を運搬し、世界大戦時にはその供給を支えていました。

さらに特筆すべきは、ミネソタの最高標高は701 mしかないにも関わらず、北米における3重の大陸分水嶺が存在する点です。すなわち、ミネソタに降った雨は、①南へ4,000 km流れてミシシッピ川を経てメキシコ湾へ、②東へ流れて五大湖とセントローレンス川を経て大西洋へ、③北へ流れてレッドリバーからカナダを経て北極海へと、それぞれ全く異なる水系に分かれていきます。このように、ミネソタの大自然はとてもユニークかつ想像を絶するスケールです。州立公園も多数あり、ハイキングやランニング用のトレイルは州内各地に張り巡らされ、総延長は約2,400 kmにも及びます。休日の散歩や探索が楽しみになる環境でした。

そして、ミネソタに住む人々は、とても親切で温かい印象があります。ミネソタには“Minnesota Nice”と呼ばれる独特の気質があり、外部から来た人にも親切で、争いを避ける穏やかな雰囲気があると言われています(ただし“本音と建前”のような意味もあります)。200~300年前に北欧系移民が入植する前から、この地には先住民が暮らしていました。厳しい寒さの中で生き抜くには、出身に関係なく協力することが必要だった——そんな歴史が、この土地の人々の穏やかさや助け合いの精神につながっているのではないかと、私は想像しています。

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テキサス編

ヒューストンへの異動と準備

2023年の冬が近づいた頃、Wuラボがミネソタからテキサス州へ移転することがメンバーに正式に通知されました。そこからは、慌ただしい日々の始まりです。多くのメンバーはボスとともに新天地へ向かうことになりましたが、半年ほどのオーバーラップ期間を設け、段階的に異動する体制が取られました。メイヨーに所属していた機器で行っていた実験をどう区切るか、凍結サンプルをどう移送するか、マウスのMTA(Material Transfer Agreement)は……と、気づけばToDoリストは無限スクロールの様相を呈してきます。むしろ「こんな手続きがあったとは」と、想像の外から降ってくる作業の方が多かったかもしれません。

たとえば、移設できる備品とそうでない備品の仕分けから始まります。私たちの研究の要とも言える二光子顕微鏡は、メイヨーのグラントで購入されたものであったため、移設不可と判断され、新たにテキサスでの購入と設置を進めることになりました。各メーカーと何度もミーティングを重ね、機器構成やスペックを検討していきます。その中で、渡米から5年目に差し掛かった私はシニアポスドクとして、顕微鏡室の立ち上げと運用を主体的に進めることを任されました。一言で「顕微鏡の準備」といっても、レーザー、冷却装置、除振台、PCラック、in vivoイメージング用のステージ、さらには遮光カバーの設計・自作まで、準備するものは多岐に渡ります。

問題はここからです。異動先の大学の施設部門と連絡を取りながら、搬入時の貨物エレベーターのサイズや廊下の幅(ドアの高さも!)を調べるのはもちろんのこと、部屋の内装や電源の位置、定格に基づいてトータルの消費電力を計算した上でコンセントの設置など、部屋のレイアウトを決めていきます。やってみて初めてわかったのですが、大学の規定というものは思った以上に細かく決まっているものです。事前に調整できたことも多くありましたが、実際には現場で都度対応しながら顕微鏡を設置していくことになりました。異動後にはレーザー安全委員会や動物実験委員会との交渉も必要となり、可能であれば異動前から連絡をとって議論を始めておいた方がよかったと思います。とはいえ、何がどこまで必要かはやってみないとわからない——その連続で、大いに勉強になりました。

私が主に担当したのは顕微鏡室の整備でしたが、その他にも動物関連施設、RNA抽出やPCRを行うウェットラボ、細胞培養設備の準備など、多くの作業をラボメンバーで分担して進めました。全体としての作業量と、規定を一から理解する必要がある点は、なかなか骨の折れる仕事でした。

また、ビザの更新も早め早めに行なっておくべき大事な作業です。私は引き続きJ1ビザで滞在することになっていましたが、所属(スポンサー)が変わるため、新たなDS-2019を発行してもらう必要がありました。この手続きにもおよそ5ヵ月を要しました。

研究室の引越しに加えて、私自身の引越しも必要です。州をまたぐ単身者の引越しでは、家具をすべて処分して移動先で買い直すことも多いらしいのですが、幸い私の荷物は少なめだったため、できるだけ自家用車に積み込み、残りは知人に譲るか処分することにしました。出発当日、一部の荷物がどうしても収まりきらないことが判明し、急遽ルーフキャリアを車の屋根に取り付け、荷物を固定して出発することになりました。こうなると、高さ制限のある駐車場の入口などが突然スリリングな体験に変わります。想定外でしたが、良い経験でした。

アメリカ本土最北に位置するミネソタからメキシコ国境に近いテキサスまで、走行距離はおよそ2,000 km。途中でちょっとした寄り道もしつつ、私は3日かけて大陸を南下しました。アメリカという国の広さをあらためて実感する旅でもありました。

ヒューストンの環境

3月下旬、マイナス10°Cの吹雪の中でミネソタを出発しましたが、南下するに従って気温は上がっていき、3日後にヒューストンに到着すると28°Cでした。道中の風景はもちろん、街の雰囲気も植生も一変し、まるで別の国かと思うほどの違いです。ちなみに、ミネソタでは道端でリスや野うさぎをよく見かけましたが、ヒューストンでは代わりに南国らしい姿のトカゲが走り回っています。

ヒューストンの南部に広がるテキサス・メディカル・センター(TMC)は、世界最大級の医療・研究機関の集積地です。年間の患者数は1,000万人以上、従業員と研究者を合わせた数は12万人を超え、まさに「医学の街」と呼ぶにふさわしい規模を誇ります。がん研究で世界的に知られるテキサス大学M.D.アンダーソンがんセンター、全米屈指の小児心臓外科で名高いテキサス小児病院、そして基礎・臨床の両面で活発な研究が行われるベイラー医科大学など、計54の機関がTMC内に集まっており、巡回バスや路面電車が頻繁に行き交う賑やかなエリアです。

私が現在所属するのは、その一角にあるテキサス大学健康科学センター・ヒューストン校(UT Health Houston)です。研究活動においてTMCの何よりの強みは、豊富なリソースと機関間の連携のしやすさにあります。それぞれの機関が垣根なく連携しており、たとえばウイルスの作成依頼や先端的な顕微鏡の利用・解析支援など、研究活動の提携先がすぐに見つかりますし、著名な先生による招待講演が毎日のようにTMCのどこかで開かれています。研究会のような集まりも頻繁に行われており、この街にいながら近い分野の研究者と知り合う機会も多いです。このように様々な医療・研究機関が集積されているメリットはとても大きく、分野横断的な交流が促進されるこのような環境は、研究活動の広がりや深まりにおいて非常に大きなメリットだと感じています。

実験をスタート(再開)するまで

私の研究では、in vivoイメージングや行動実験を含む動物実験が中心となるため、実験開始には動物実験プロトコルの承認が必須です。テキサスへの異動が本格化する前の2024年1月頃から、プロトコルの書き換え作業に着手しました。当初は、すでにミネソタで承認されていた内容をベースにするので、フォーマットさえ合わせれば問題ないだろう……と軽く考えていたのですが、それは非常に甘い見通しでした。

現実には、ほぼ全ての項目に対して大幅な加筆修正が求められました。まずミネソタにいる段階から動物の繁殖プロトコルの承認を得て、メイヨーで飼育しているマウスをヒューストンに移すことから始めました。各種マウスの詳細を登録し、それぞれを飼育・繁殖させるためだけのプロトコルです。これはスムーズに承認されました。受け入れ側のキャパシティの課題とリスク分散の理由で、大量のマウスを一度には移動させず、若いマウスの雌雄ペアを時間差で用意しておき、数ヵ月かけて段階的に移動していきました。

一方で、本格的に時間がかかったのは、実験に関するプロトコルの申請でした。私のプロジェクトはin vivoの慢性期イメージングを含み、複雑なタイムラインが複数並行するため、各手順の詳細な記述とJustification(正当化)に膨大な労力を要しました。たとえば「カイニン酸誘発てんかんモデルのため、20 mg/kgを腹腔内投与し、2時間観察する」と記載したとします。すると審査側からは、「なぜカイニン酸なのか」「なぜその用量・投与経路なのか」「観察時間の根拠は?」「人道的終了基準を明示せよ」「代替手法はなぜ使えないのか」「オスメスの比率は?」「実験設備の詳細は?」「考えられる長期的な影響や副作用について説明を」等々、まるで論文査読のようなコメントが返ってきます。しかも、何度修正しても新しい質問が湧いてくるという、終わりなきリバイスです。本格的に委員会とのやりとりが始まったのは4月。そこから毎週のように修正を重ね、最終的に承認が下りたのは9月末でした。半年以上かかったわけですが、噂によるとまだこれは早い方で、半年から1年は覚悟するもの、とのことです。

この間、もちろん動物実験はできません。私は以前に集めたデータの解析を進めたり、文献を整理して総説を書いたりして過ごしました。審査に苦しめられながらも、「これはむしろ、研究を見直す良い機会なのかもしれない」と思えるほどには、学びの多い時間だったとも言えます。私が主に担当したプロトコルは最終的に240ページを超え、現在はさらに5つの別のプロトコルの承認を得て実験を行っています。ただし、実験内容や試薬の追加があれば、その都度プロトコルを更新しなければならず、もはやプロトコル修正は日常の一部となっています。

ちなみに、プロトコルが承認されたからといって、すぐに実験を始められるわけではありません。実験前には、獣医師と動物実験委員会の立ち会いのもと、Dry run test(手技確認)とLive run test(動物を用いた実技確認)を一人ずつ実施する必要があります。これを全ての手技について行うと聞いたときには膝から崩れ落ちそうになりましたが、それでは委員会の仕事まで膨大に増えてしまいます。相談の末、複合手技に要点を絞って最小限のテストで済ませる、という形で合意が得られました。もしこの交渉ができていなければ、今でも実験が始められていなかったでしょう。こうしてさまざまな関門を乗り越え、ようやくヒューストンで初めてin vivoイメージングができたのは、2024年11月末のことでした。

ところで、動物実験に関して日米の違いでひとつ疑問に思っているのは、アメリカでは「ネズミ返し」を見かけないことです。日本では、カルタヘナ法に基づく拡散防止措置として、実験施設の出入口にネズミ返しが設置されているのは見慣れた風景で、研究者はこれをまたいで通る(たまに引っかかる)のが常識だと思っていました。アメリカではカルタヘナ議定書を批准していないためか、これまで一度もネズミ返しを目にしたことがありません。その代わりに、所内にはネズミ捕り器を見かけます。トム&ジェリーに出てくるようなバネ式のものも巷では現役ですが、研究所では箱型のタイプが主流です。これほど厳格な動物実験プロトコルの承認を経ながら、ネズミ返しがないのは少々意外で、肩透かしを食らったような気分になります。個体としての動物の福祉を考えるのが最優先で、遺伝子に関しての認識は少し日本と違うのかもしれません。欧州や他の国ではどのような扱いなのか、各国の研究者にぜひ伺ってみたいです。

ヒューストンでの生活

新しい住まいは、ヒューストン到着後に決めました。事前に気になる物件にいくつか連絡を入れておき、現地で内見をしてから、地域の中でも比較的家賃の安いアパートに決めました。私はそれまでヒューストンを訪れたことがなかったため、実際に街を見て、治安や交通の便を自分の目で確かめてから契約したいと考えていました。もちろん、事前契約でスムーズに入居する人も多く、その方が精神的にも楽だったかもしれません。実際、到着直後の数日間はホテルに滞在していましたが、「住む場所が決まっていない」という状況は、想像以上にストレスが大きく、荷物を満載した車での移動もなかなか大変でした。

ヒューストンでまず印象的だったのは、車の多さと運転の豪快さです。ヒューストンはニューヨーク・ロサンゼルス・シカゴに次ぐアメリカ都市人口第4位の大都市です。世界で最も車線数が多い高速道路があり、片側だけで13車線ある道もありますが、ラッシュの時間にはその道が車で埋め尽くされます。「朝のラッシュは朝5時から正午、夕方のラッシュは正午から夜8時まで」と冗談めかして言われるほど、渋滞が常態化しています。そのため、私の中で“5分前行動”は“1時間くらい前行動”に進化しました。

アメリカ生活ではIDの提示を求められる機会も多いので、運転免許証があると便利です。州ごとに免許証が異なるので(州法によって交通ルールも若干異なる)、州をまたいで引越した際にはライセンス切り替えが必要です。今回の引越しに伴う免許証の切り替えはスムーズでした。ミネソタでは、渡米後しばらく日本から持っていった国際免許証を使い、運転に慣れた頃に筆記・実技試験を経て州のライセンスを取得しました。テキサスへの引越し後は試験なしで更新センターに予約を入れ、ミネソタの免許証と身分証明書を持参すれば新しい免許が発行されました。ただし、車両登録は少し複雑です。まず排ガス検査と車両検査を受けた上で、居住地の属するカウンティのTaxオフィスで登録を行い、ナンバープレートを付け替えます。テキサスでは毎年排ガス検査の結果を提出し、手数料を支払い、年度ごとのステッカーをフロントガラスに貼ります。ただ、日本のような厳格な車検制度ではないため、ボロボロの車、黒煙を撒き散らす車、バンパーのない車などが日常的に走っています。私の車も、ヒューストンに来てからみるみるうちに傷だらけになりました。自分に思い当たる節はなく、どうやら駐車中に他の車がぶつけて去っていくようです。とても新車などを買う気になれない環境ですが、むしろ神経質にならなくてよいので“車は単なる移動手段”と割り切っています。高速道路を走れば車が横転している光景に出会いますし、ボロボロの車を引きずるレッカー車を見ない日はありません(これは誇張ではないのです…)。自宅のアパートの隣の車が4輪とも盗まれていることもありました。また、自分の駐車スペースを他人に占拠されていてもレッカー移動はできないと教えてもらいました。下手に通報すると報復で車を破壊されるとのことです(実際、隣の車の4輪は報復として盗まれたようです)。一方、ミリオネアやビリオネア達の住む地域では車もピカピカで、破損も盗難も見かけません。アメリカでは「安全はお金で買うもの」と言いますが、家賃の安さと治安の悪さがある程度比例するのは事実だと思います。

そんなヒューストンで私が一番気に入っているのは、ごはんが美味しいことです。タコスやナチョスなどTex-Mex(メキシコ風アメリカ料理)はとても美味しいです。日本では専門店が少ないと思うので、ヒューストンを訪れる機会があればぜひ一度マルガリータと一緒に味わってみていただきたいです。また、ヒューストンには規模の大きなチャイナタウンもあり、アジア食材の調達にも困りません。日本食や中華料理のレストランのクオリティも高いと感じます。留学生活を長く続けるうえでは、研究環境だけでなく、暮らしの面でも快適さを感じられることが重要だと思います。

Bulletin of Japanese Society for Neurochemistry 64(1): 36-49 (2025)

左:UT Health Houston,右:メキシカン料理

ビザの変更

非移民交流訪問者(J1)ビザの滞在可能期間は最大5年間です。私が渡米5年目に入った2024年、翌年以降アメリカで研究を続けるには、永住権(グリーンカード)を申請するか、就労ビザ(H1Bビザ)へ切り替える必要がありました。H1Bの取得には、所属機関にスポンサーとなってもらう必要がありますが、幸運にもWu先生のサポートのもと、私の所属先がスポンサーを引き受けてくれることになりました。

まず確認すべきは、J1ビザ特有の「2年間ルール」の有無です。これはJ1プログラム終了後、一度帰国してから少なくとも2年間、出身国で生活しなければならないという条件で、医学研修目的や政府出資のプログラムの場合などに適用されます。私のビザには「該当しない」と明記されていましたが、実際にはビザにそう記されていても適用されるケースもあるとのことで、念には念を、国務省に「J1 Waiver, Advisory Opinions」を申請し、正式に“適用外”であることを書面で証明してもらうことにしました。ヒューストンに移ってすぐの2024年4月に申請を出しましたが、結局書類を受け取ることができたのは半年後の10月。その間、手続きが進んでいるのか、そもそも受理されたのかもわからない状態が続き、とても不安でした。忘れた頃にウェブサイトの表示が「受理」に変わり、しばらくしてから無事に2年ルール免除の資格があることが書面で示されました。

この書類を手に入れることに先んじて、所属機関の人事部門と国際部門の担当者と連絡を取り合いながらビザ申請を進めました。提出書類は、身分証明書や学位記、大学院の成績証明書、犯罪歴の有無などに関する書類などです。一通りの書類を揃えて2024年11月に提出し、あとは移民局(USCIS)からの返答を待つ状態となりました。

2025年の3月になり、ようやく手続きを進めてOKという連絡がありました。この時点で私のパスポートに貼り付けられたJ1ビザの期限は切れていましたが、DS2019に記載されているプログラムの期限までは合法的に仕事ができます。この辺りからだんだんと不安になり、担当者に毎週のように進捗を確認していましたが、2025年4月直前になって、学位取得の証明書類の追加提出を求められました。日本で学位を取得した場合、その証明書の英訳と内容について第三者機関による「Credential Evaluation(学歴証明)」が必要になります。私はすでに提出済でしたが、政権交代後のビザ審査の厳格化により、別の認証機関から再提出を求められたのです。さらにその審査を行った担当者の履歴書や機関の認証証明書まで必要とされ、かなりイレギュラーな対応となりました。

すべての書類を提出した後は、祈りながらUSCISの返事を待つのみです。かつては日本人の場合、2~3ヵ月で承認されることが多かったそうですが、現在では3ヵ月~半年、場合によっては1年以上かかるとも言われています。そこで私は「プレミアムプロセシング」という制度を利用しました。さすが資本主義の国、申請料は2,800ドルと高額ですが、3週間以内に結果が出るという制度です(承認される保証はありませんが…)。私はすでに時間がなかったのでこれを申請するしかありませんでした。そうこうしているうちにDS2019の期限が切れてしまい、H1Bが認可されるまでギャップができることになってしまいました。人事からは、ラボに来て仕事はできないけどそのあいだ有給休暇は消費できるよ、とあまり聞きたくないアドバイスをもらいつつ、そのギャップを埋めるために追加の健康保険にも加入しなければならず、本当にビザの許可が降りてくれるのかわからない不安な日々でした。

「この日までには大丈夫だろう」という予想がことごとく通用しないのがアメリカであり、それを前提に動く心構えが必要なのだと身に沁みて思います。J1ビザでは、プログラム終了後も30日間の滞在は認められますが、それを過ぎる前に出国しなければならず、最悪の場合は日本に帰らざるを得なくなる——その可能性も現実味を帯び始めていました。

最終的に2025年4月末、本当に3週間でUSCISからH1Bビザの承認が下り、無事に仕事に復帰することができました。

このビザ取得プロセスに関しては、多くの体験談を読みましたが、対応や所要期間が人によって大きく異なっているようです。私の場合は幸運にも最終的に承認されましたが、絶対に大丈夫という保証はどこにもないのだと実感しました。

昨今、アメリカの出入国審査が厳しくなっているという報道もありますが、これから留学を検討している方には、必要以上に悲観する必要はないとも思っています。正規の手順を踏み、受け入れ先が決まっていて、本人にも特段の問題がない日本人であれば、ビザが承認される可能性は依然として高いと感じます。私たちは国を越えて働きに来ている外国人の立場である以上、ビザの審査が厳しいのはある意味当然と言えます。その過程もまた、異国で働くことの一部なのだと、身をもって学びました。

現在のアメリカの研究環境

2025年現在、第二次トランプ政権は「アメリカ第一」を掲げた政策転換を推し進めています。研究開発分野も例外ではなく、国策としての研究予算の見直しと、政治的理念に沿った研究支援の再構築が図られています。科学技術研究への資金配分が大幅に削減・再編成され、国際協力や特定分野の研究への支援には厳しい制限が課され始めました。こうした急激な方針転換により、アメリカの学術研究コミュニティには戸惑いと危機感が広がっていることを肌で感じます。

新政権の発足前から科学政策の予想が行われておりましたが、危惧されていたことが現実となり始めています1)

・Project 2025と巨額カット

2025年初頭には政府系シンクタンクが作成した「Project 2025」と呼ばれる政策青書が公表され、研究機関の改革案が提示されています。その柱となるのが国防分野以外の予算(研究・教育・社会政策など)の包括的改革が掲げられました。その柱に据えられたのが、研究機関への予算配分の大幅な見直しと組織再編です2)。例えば米国国立衛生研究所(NIH)と米国国立科学財団(NSF)という2大基礎研究資金配分機関は、ともに連邦助成金予算の4~5割減という劇的な縮減が計画されています。トランプ政権の2026会計年度予算案では、NIHの予算が2024年度の約470億ドルから約290億ドルへと40%近く削減され、従来27あった研究所・センターを8つに統合する大再編が提案されました。このような予算の急減は、単なる財政緊縮にとどまらず、研究支援の在り方そのものを根底から変えようとする試みと言えるかもしれません。

・助成金凍結とDEI逆風の事例

トランプ政権の「連邦助成金凍結」政策に対し、北米神経科学学会(SfN)は2025年1月28日付プレスリリースで、次のように強く懸念を表明しました3)

「連邦政府による助成金の凍結は前例のない措置であり、神経科学をはじめ全科学コミュニティに大きな混乱をもたらしています。既に承認・発行された資金、さらには既に支出された経費の払い戻しまで停止されており、学生や研修者、助成を受けている研究者だけでなく、重要な成果を待つ患者や大学・研究機関の職員・雇用主にも経済的な影響を与えるでしょう。」(SfNプレスリリースより抜粋・翻訳)

SfNはこの声明で、科学の進展と社会的恩恵が同時に重く傷つけられていると警鐘を鳴らしています。つい最近の事例として、脳の血流障害が認知症を引き起こすメカニズムを研究するNIHの5300万ドルの助成金が一度中止され、その後反対活動により中止が撤回されるということがありました4)。プログラム中止の理由は、コホート研究の集団に黒人やヒスパニック系の人種が含まれていることだったとされています。しかし、この人種多様性はもともと高リスク群を考慮する科学的合理性に基づいたものでした。最終的に、研究の代表者と弁護士のチームがこの決定に対して訴訟の準備をし、反対活動を行ったことで資金の回復に成功した、とのことです。なんとも時代に逆行したような出来事ですが、これはトランプ大統領自身が出した「多様性・公平性・包括性(DEI)関連活動への連邦資金供与禁止」の大統領令を具体化する動きであり、研究者の間では「政権の政治的思惑で科学が左右されるのでは」との不信感が広がっているように思います。

・経済政策と研究物流

経済政策の動向も目が離せません。例えば中国に対する貿易関税が4月に一時145%になり、米中貿易協議を経て5月には30%に引き下げられました5)。事実上の禁輸措置とも言える100%を超える関税は研究にも支障が出ます。実験機器や試薬、ウイルスベクターなどを中国から取り寄せて使用することも少なくないからです。このように経済的な先行きの不透明感が強まっている現状があります。いずれにしても、アメリカ国内からすればなるべく他国に依存しない計画が必要になりますし、日本や外国からするとアメリカに依存しないような選択が優先されてしまうかもしれません。アメリカにはプラスミドの寄託(リポジトリ)を担うAddgeneや、微生物や細胞株を保有するATCCなど多数の生物資源施設(BRCs: Biological Resource Centers)の拠点があります6)。実際に私が日本にいた際は多くのコンストラクトをアメリカから入手していましたし、ジャクソン研究所やチャールズリバーをはじめとした非常に有名なマウスのベンダーが存在し幅広く動物を供給しています。これらはもはや公共物のサプライヤーとして機能しているわけですが、その流動性が下がることが国際的な研究協力を阻害するのではないかと心配する声もあります。

・国際協力への逆風

第2次トランプ政権の「アメリカ第一」路線は、国際交流という観点でも逆風をもたらしています。

2025年提案の予算では、アメリカが参加する多くの国際科学プロジェクトへの拠出金が大幅に削られました。例えばNASAの科学予算は2024年比で半減が打ち出され、欧州宇宙機関(ESA)と共同の火星探査計画ExoMarsへの拠出はゼロにする方針が示されました。欧州の科学者からは「提案通りになれば国際協力への信頼関係が損なわれ、元に戻すにも時間がかかるだろう」と懸念する声が上がっています7)

さらに政権は「敵対国から科学技術を守る」として、中国を中心とした海外研究者・学生への締め付けを強化しています。具体的には、中国など「敵対的国家」出身の留学生・研究者へのビザ発給を大幅削減または停止する方針が示されました8)。実際に中国人留学生のビザ取り消し・発給拒否が相次いで報道されるなか、私の所属する機関ではプライベートの一時帰国などを除いて学会参加などのための中国への渡航が認められなくなりました。本稿執筆時点の6月現在、一部の国籍の者を対象にF、M、Jビザの新規面接予約のスケジューリングが一時的に停止されています。これはビザの発給停止を意味します。この名目としてはスパイ活動やテロリストの活動を取り締まるためということですが、それがどこまで適用されるのか、どこまで拡大解釈される可能性があるのかは未知数です。ビザ資格においてはソーシャルメディアでの過去の発言を調査される可能性があり、インターネットを通した意見の表明にも気をつけなければなりません9)

また2025年5月に発表された来年度の予算案では、「Skinny Budget」と称して国務省の国際交流プログラムを6億9100万ドル削減することを提案しています10, 11)。これは前年と比較して93%という大幅な縮小とのことです。もし議会がこの予算案を可決した場合、国務省管轄のフルブライト奨学金などの著名な交流プログラムまでもが実質的に廃止される可能性があります。国際交流プログラムを実施している多くの団体が署名活動などを行っており、予算案の拒否を促そうとしています。

政治・経済リスクが研究現場に降りてきたことを書きましたが、過度に悲観する必要はないと思います。私自身も無事にビザを更新することができました。一方で、資材確保や国際共同研究の継続には、これまで以上に柔軟な計画と迅速な情報収集が求められると言えます。

おわりに

アメリカの研究環境は、いま、大きな変化のただ中にあります。政策の転換、研究費の見直し、国際協力の見直しなど、研究者を取り巻く状況は決して安定しているとは言えません。日々の研究活動に影響を受ける場面もあり、科学と政治の距離がこれほど近く感じられることに戸惑う瞬間もあります。ですが、だからこそ今、「科学が社会とどう向き合うか」を考える機会が与えられているのだとも感じます。研究の自由を守ることの難しさ、グローバルな知の循環の重要性、そしてどのように多様な人材を受け入れ、(自らを、そして後進を)育てていくか——。これらの問いに向き合うなかで、「研究者としての軸」がますます問われている気がしています。

こうした経験を通して学んだのは、どんな時代であっても、熱意ある個人やチームの存在が科学を前に進める力になっているということです。私の身近には多様な出身国の学生や研究者がいますが、みな下を向いてはいません。困難な局面でも協力し合い、未来の知を拓こうとする姿勢には、国を問わず共感があります。国際的な連携が政治の影響を受ける中でも、研究者同士のつながりが信頼を生み、道をつくっていることを肌で感じています。

日本の皆さんにお伝えしたいのは、アメリカは今もなお、多くの刺激と機会に満ちた場所であるということです。そして、遠くから見れば混沌として見えるこの社会の中にも、志を同じくする仲間が確かに存在しています。国際的な研究の舞台に身を置くことで、自分の研究を見つめ直し、より広い視野を持つきっかけにもなると信じています。

私は変化を恐れるよりも、変化の中で学び続ける姿勢こそが、どこであっても研究者に求められている姿だと思っています。これは、パンデミックを乗り越え、研究拠点を変え、いま大きな政策転換を目の当たりにするなかで、私が身に沁みて思うことです。どんな時代、どんな場所でも、知を求める歩みは止まらないでしょう。その一歩一歩を、それぞれの立場から皆で進んでいけたら嬉しく思います。

Bulletin of Japanese Society for Neurochemistry 64(1): 36-49 (2025)

ヒューストンにてWuラボの集合写真

引用文献References

1) Clare Zhang, “Project 2025 Outlines Possible Future for Science Agencies,” American Institute of Physics, November 20, 2024(2025年6月7日閲覧)https://www.aip.org/fyi/project-2025-outlines-possible-future-for-science-agencies

2) Kathryn Palmer, “Details of Trump’s Budget Cuts Alarm Researchers,” Inside Higher Ed, June 3, 2025(2025年6月15日閲覧)https://www.insidehighered.com/news/government/science-research-policy/2025/06/03/new-details-trumps-budget-cuts-alarm-researchers

3) SfNプレスリリース(2025年6月7日閲覧)https://www.sfn.org/publications/latest-news

4) Jon Hamilton, “Amid Trump cuts, this scientist lost a $53 million NIH grant. Then he got it back,” NPR, June 6, 2025(2025年6月7日閲覧)https://www.npr.org/2025/06/06/nx-s1-5422361/amid-trump-cuts-this-scientist-lost-a-53-million-nih-grant-then-he-got-it-back

5) Daisuke Wakabayashi et al., “U.S. and China Agree to Temporarily Slash Tariffs in Bid to Defuse Trade War,” The New York Times, May 12, 2025(2025年6月7日閲覧)https://www.nytimes.com/2025/05/12/business/china-us-tariffs.html

6) Baker M. Repositories share key research tools. Nature, 505(7483), 272 (2014).

7) Elizabeth Gibney, “How Trump’s budget cuts could derail global science collaborations,” Nature, June 6, 2025(2025年6月7日閲覧)

8) U.S. Embassy & Consulates in Japan “Suspension of Visa Issuance to Foreign Nationals to Protect the United States from Foreign Terrorists and other National Security and Public Safety Threats,” Travel.State.Gov, (2025年6月7日閲覧)https://travel.state.gov/content/travel/en/News/visas-news/suspension-of-visa-issuance-to-foreign-nationals-to-protect-the-united-states-from-foreign-terrorists-and-other-national-security-and-public-safety-threats.html

9) Humeyra Pamuk, “米,学生ビザ新規面接を停止 ソーシャルメディア審査拡大へ準備,” Reuters, 2025年5月27日(2025年6月7日閲覧)https://jp.reuters.com/world/us/CN3MFZXSNRJWNJY7HDHIJ7R3RQ-2025-05-27/

10) The White House “The White House Office of Management and Budget Releases the President’s Fiscal Year 2026 Skinny Budget.” May 2, 2025(2025年6月7日閲覧)https://www.whitehouse.gov/briefings-statements/2025/05/the-white-house-office-of-management-and-budget-releases-the-presidents-fiscal-year-2026-skinny-budget/

11) Executive Office of the President, Office of management and budget, “Fiscal-Year-2026-Discretionary-Budget-Request.” May 2, 2025(2025年6月7日閲覧)https://www.whitehouse.gov/wp-content/uploads/2025/05/Fiscal-Year-2026-Discretionary-Budget-Request.pdf

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